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The Tower DS
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ザ・タワーは、おかげさまで今年で15周年を迎えます。初代タワーが発売された年に生まれた子供は、いまや中学生。15年といえばそんな時間です。初代タワーをプレイした方のなかには、タワーの世界と同じように、結婚をし、家族をもち、エレベーターにイライラしてるかもしれません(笑)

そんな歴史のあるザ・タワーですが、本サイトでは、15周年を記念して、TheTowerDSのプロデユーサーであり、タワーの産みの親でもある斎藤由多加氏に、タワーの誕生秘話などを、語ってもらいました。タワーの知られざる一面をお楽しみ下さい。
開発編

-企画時代-

タワーVer1.0は、もともとはMacintoshで作られた。 オープンブックという会社から発売されたのが1994年の6月だから、今年の6月でまる14年が経過し、15年目ということになる。
もともと、マックのモニターはモノクロだったせいで、タワーの基本となるテナントアイテム群もモノクロでつくった。Studio8というドット編集ソフトでひとりでしこしこと作ったのだけれど、1フロア24ドット、住人のシルエット高が16ドットになったのはこの頃である。住人シルエットはモノクロのままだから、この当時のドット絵がそのまま動いているわけである。(コンシューマー機はテレビモニターなので12ドットでデザインし直されたが・・) やがてカラーのマックが普及してきたので16色に色を着けて企画は進めていた。やがてプログラマーが合流し、ソフトとして動き始めたころには256色の時代にはいっていたので、H氏の手を借りてパレットアニメなどができる状態にしてもらった。
-コーディングの時代-
コーディングは、フリーのプログラマーA氏が担当し、その敏腕ぶりを発揮してもらった。
万という数の住人を表現するこのゲームプランは、当時のパソコンの処理能力としては困難で、まともに計算していてはゲームにならないことが開発途中にわかってくる。
このころ、A氏と私の二人しかいないプロジェクトで、何度も座礁しかけた。
A氏が「やめた」と言えば全ては終わってしまうわけである。事実、何度もそうなりかけた。

が、人間の知恵というのは偉大である。適当に間引いて人を処理するという苦肉の策は、逆に住人のランダム的な動きとして解釈され、 移動するときしか人を表示しないという方法はワープ処理を可能にし、つまりコロンブスの卵的なトリックを駆使して奇跡的にゲームプレイとしての 時間密度に到達することができたのである。最後までやり遂げてくれたA氏には感謝である。

そもそもタワーが扱っている題材は、そのままシミュレーションゲームの題材とするには、膨大過ぎるものだった。
住人がそのまま移動体として表示するというのは、それまでのリアルタイムシミュレーションでは初だった。 登場するゲームキャラというのはせいぜい10人どまりで「群集」を表現するというのは仕様的にも処理的にもタブー的だったからだ。
この流れから、とくにコンシューマー機は、キャラを動かすのはスプライト機能が主流で、ビットマップで表現されたキャラがあちこちに移動させるこのゲームはいかにもマック出身者ならの発想だったのではないかな。

流通編

-海外への道-

作っている最中、おそらく1993年あたりに、シミュレーション&ゲーミング学会というイベントが日本で開催され、そのパネラーとしてシムシティーを発売したばかりばかりのWill Wright氏と出合った。 そのイベントの控え室で制作中の開発中のタワーをノート型マックで見せた。 住人が蟻のように上下に行き来する風景は、当時のリアルタイムシミュレーションとしては斬新だった。 Willはとても面白がっていて、帰国後に薦めてくれたのだろうか、おなじくシムティーの発売元であるMAXISの創業者ジェフから、「興味がある」という電話(当時はインターネットはまだ日本には普及していなかった)が入った。 MAXISは自社発売をはじめたばかりの成長企業で「全世界発売したい」と鼻息を荒くしていた。

この話をきいて小躍りした記憶がある。これに匹敵するニュースは15年経過した今でもまだ経験していない気がする。

-会社の設立と発売-
もともとはどこかのゲーム会社に持ち込めば買ってくれるところがあるだろう、くらいに考えていたが、なにせマックのソフトである。 どこも相手にしてくれない。そうこうしているうちに予算は膨れ、ロイアリティーではまかなえそうもないことがわかってきた。

いたしかたなく自社発売という大胆な発想に切り替えることにした。 そこでつくったのがオープンブックという会社である。 知識を開く、みたいな意味をこめた社名だった。 どうせなら、と当時書いていた自著をCD-ROMにして電子出版の形(expanded book)で発売することを先行してはじめた。 収支はトントンだけれど、それは楽しい時期だった。

しかし肝心のタワーは、日本での発売は、毎年2月に幕張で開催されるMacWorldEXPOで予定していたにもかかわらず、なにせ人の手が足りずバグがとれない。

MacEXPO開催期日での「発売」は、いつしか先送り「発表」にすげ変った。

-流通の問題-
マックのソフトは製造は簡単である。 コンシューマーのようにメーカーに許諾を得る必要などない。 マスターCD-ROMを一枚作れば、あとは複製と紙・マニュアルを印刷するだけである。 問題は流通で、ことマックのソフトなどをまとめて買い取ってくれる流通などない。 橋本さんという人が経営するメディアネットワークという会社が、「新規事業」という名目で3000本だけ引き取ってくれることになり、これが本当に助かった。 それ以降しばらくの間、タワーはこのメディアネットワークさんを経由して市中に出回ってゆくことになった。 宣伝費は、チラシの印刷費だけである。メディア広告など、皆無である。 マックの雑誌が、日本製ソフトがほとんどない時代だったこともあり、毎号のように取り上げてくれた。

そう考えると、タワーは、まちがえなく、当時の日本のマックコミュニティーがヒットさせてくれたソフトである。

-そしてヒット-
結局発売されたのは、1994年6月ですでに脱サラして1年半が経過していた。 初回3000本のあとのリピートがすこしづつ来た。 当時9800円のソフトを定価の半値弱でメディアネットワークさんに卸していたので、そこから製造費をさっぴくと、3000本では当然赤字だった。 だが、もともと開発はサラリーマン時代の退職金と貯金をはたいてつくったものだから、借金はない。 だからトントンであればいいと思っていた。 とんとんになったら人生のよき思い出としてさっさと会社を畳んでまた仕事を探せばいいくらいに考えていた。 それが、あれよあれよという間に、1万本を超え、やがては当時のマックソフトとしては異例のヒットの様相を呈してきた。

出荷が5万を超え、人が増え、コンシューマ機の話がくるようになったあたりにはオフィスを借り、このにわか作りの会社は「ゲーム会社」としての一歩を歩み始めたのである。

つづく


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